出典元:夕刊フジ
「コロナ禍のために表現する場所がなくなったことで、いろいろと思いが募っていたんです。だから一日も早く音のシャワーに酔いしれることのできる時代が戻ってきてほしい、そしてそのチャンスは必ず来るという思いを込めて、一気に詞を書き上げたんです」
そう語る「また、あの頃のように~CHANCE」を含むアルバム「Lycoris~彼岸花」をリリースした。
全編を貫いているのは懐かしさと新しさの共存だ。楽曲はどこか80年代のシティポップをほうふつとさせる懐かしさを漂わせながらも、最新のサウンドを取り入れている。言ってみれば、めっちゃおしゃれなのだ。
「そう言っていただけるならうれしいです。懐かしいけど古臭くなく、モダンでおしゃれな感じを目指していたので。このアルバムは私の新しい一面を表現できたと思っています」
◆ストレートに歌う
今回は「赤とんぼ」や「ふるさと」などの童謡や叙情歌を歌うシンガーとしてではなく、ポップスシンガーとしての顔をみせている。実は、そこには人知れぬ苦労もあったという。
「プロデューサーの手使海(てしかい)ユトロさんから、歌い方を変えようといわれたんです。叙情歌を歌っているので自分ではあまり崩しているつもりはなかったんですが、やはり長年歌手をやっていると、どうしてもバランスが崩れていきます。良かれと思って崩した表現方法が実は良くなかったり、自分では気づかないうちに変なくせがついていたり。だからストレートに歌うことを心がけました。でも、これが難しい。大人のシンガーの扉を開けたのかな。集大成という感じですね」
2011年8月、産経新聞社が主催した東日本大震災の復興支援活動「未来塾」に参加し、宮城県内の被災地を回りコンサートを開催した。1995年の阪神大震災では神戸市で被災したこともあり、被災地のために立ち上がったのだ。
「歌手として音楽に携わってきて、皆さんのお役に立てたことはありがたかったです」と語りながらも「実際に津波に襲われた現場をみたとき、テレビで見ていた光景とのギャップにがくぜんとしました」と振り返る。
◆価値観を信じて…
阪神大震災を経験していたとはいえ、果たして自分は被災者の人たちの前で歌えるのだろうか。不安でいっぱいだった。
「被災地の皆さんのために叙情歌を歌ってほしいということでしたが、私の目の前は景色が一変した世界でした。緑の山、青い空…そんな美しいふるさとの光景なんて、流されてしまったのですから。歌うこと自体がしんどかった」
コンサートでは涙をこらえて歌っていたが、ふとピアニストと目が合うと、ピアニストが泣き出してしまった。
「そこから私もバンドのメンバーもせきを切ったように泣いてしまったんです。でも、客席の方々は誰も泣いてなんかいない。皆さん、もう涙なんて出ないんです。私たちみたいに感情を吐き出すことなんて、皆さんはとっくに超えていたんですから。そのときはプロとして恥ずかしい思いでした」
しかしその体験が歌手として新たな一歩を踏み出すきっかけとなった。
「叙情歌って美しい名曲を美しく歌って伝えるものだと思っていました。でも心がカチカチに固まっている人には届かない。むしろ淡々と歌うしかないんだと。変に感情は入れ込まないほうがいいんだと思うようになりましたね」
今、日本を覆いつくしているコロナ禍でも同じような思いを抱いている。これまでは「コミュニケーション」が重視されていたが、今はソーシャル・ディスタンスに代表されるように「個」が重要視されるようになった。
「みんな価値観も大きく変わったのではないでしょうか。それならば、自分の価値観を信じて、作ったものを世に出していくしかないんです。これがウケるとかではなく、ありのままでいいんだと。ただひたすらに信じるものを表現していくだけなんです」
22日にコンサートを開催する。当初は無観客を想定していたが、密にならない形で観客も入れることに。
「無観客のライブも、それはそれで新しい形だと割り切って、取り入れようと思います。拍手がないのが寂しいとマイナスにみるのではなく、みなさんに完全なものをお届けできるというプラス思考です」
その思いはきっと届くはずだ。
(ペン・福田哲士 カメラ・三尾郁恵)
■多田周子(ただ・しゅうこ) 歌手。年齢非公表。兵庫県たつの市出身。京都芸術大学音楽学部声楽科卒業後、オーストリアに音楽留学。1996年、阪神淡路大震災メモリアルコンサートに兵庫県代表歌手で出演。2011年には産経新聞社主催の「未来塾」に参加。15年にメジャーデビュー。同年、日米親善100年を記念して在日米大使館で「日本の心の歌」コンサートを開催した。9月22日のライブ「CHANCE!」は東京都町田市の「まほろ座」で開催。昼の部(開演午後2時)、夜の部(同午後6時)ともに30人限定。ライブ配信も併せて行う。