70年大阪万博の警備担当者、当時の警備資料残す(産経新聞)

出典元:昭和45年の大阪万博で警備担当者に配布された資料を保管する砂畠仁之さん=大阪府東大阪市

昭和45(1970)年の大阪万博での警備経験がきっかけとなり、警備会社を立ち上げた男性がいる。大阪府東大阪市の警備会社会長、砂畠仁之(よしゆき)さん(70)は、「70年万博が自分の人生を決めた」と断言。現在は2025年万博の大阪誘致に向けた活動にも関わっており、「次の万博が大阪に決まれば、また警備にかかわりたい」と話した。(勝田康三)

 前回の万博時は大学生だった砂畠さんは、警察官から警備会社に転職した親族から、「警備の無線通信担当がいない。手伝ってほしい」と言われ、特殊無線技士の資格を取得。当時は世界各国からの来訪者に備え、全国から警備員が大阪に集められていたといい、それでも「人手が足りなかった」と振り返る。

 開催期間(45年3月15日~9月13日)中、砂畠さんは大学を休学し、親族が勤める警備会社の「無線通信隊長」に就任。雑踏警備や迷子の対応、けが人の救助などで、警備隊本部や現場と無線でやりとりするのが主な任務だった。そのとき警備員らに配布された「警備計画の概要」や「警備広報要領」、避難誘導のコースを示したコピーなどは、「将来役に立つことがあるかも」とずっと大切に保管してきたという。

 当時の警備計画概要によると、警備隊本部は財団法人「日本万国博覧会協会(当時)」や大阪府警などからの派遣職員で構成。その下に、太陽の塔がある付近エリアの「中方面隊」と東西南北の計5方面隊が組織されていた。各方面隊は民間の警備会社が受け持ったと記されている。

 砂畠さんはアメリカ館や東芝IHI館といった人気パビリオンがあった西方面隊に所属。「連日人でごった返し、入場制限するなど対応に追われた」と振り返る。最終電車に乗れず、会場内で野宿した来場者もいたといい、「野宿する人たちに毛布を配って歩いたが、そんな日は警備員も帰宅できなかった」(砂畠さん)。

 朝の開場に合わせて目当てのパビリオンにダッシュする来場者を防ぐために、警備員十数人がロープ替わりに手をつないで誘導したことも。今も残る当時の映像などでよく見る光景だが、砂畠さんは「あの誘導は、西方面隊が一番早かったのでは」と胸を張る。

 万博終了後は大学を中退し、親族が勤める警備会社に入社したが、51年に独立。現在は会長として、2025年万博の大阪誘致にも積極的に関わる。

 誘致が実現すれば、70年万博での経験から、バリアフリーの徹底▽来場者が集中する土日や夏休み期間中などの事前の入場規制▽各パビリオン前での熱中症対策▽警備員をはじめとする人材の早期確保-など、提言したいこともたくさんあるという砂畠さん。「70年万博で『安全第一の警備精神』を学び、50年近くたった今もそれを仕事にしている。大きく時代は変わったが、2回目の大阪万博の警備にかかわることが今の夢です」と話した。

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