立川志の輔は最初から師匠に可愛がられた 俺とは大違い【ダンカンの笑撃回顧録】(日刊ゲンダイDIGITAL)

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出典元:日刊ゲンダイDIGITAL

【ダンカンの笑撃回顧録】#71

 話を40年近く巻き戻した練馬・武蔵関(最寄り駅)の立川談志宅へ移すのだ。

 とにかくその日、志の輔がやって来たのだ!! といっても、初めから平成の名人立川志の輔でもなく、2015年、お国より紫綬褒章を受けた世間的に立派な志の輔ではもちろんなかったのだ。というか、最初から志の輔という芸名が付いているはずもなく、俺の第一印象は堅苦しそうな、やたら分別のあるおっさん――NHKでまさに志の輔が司会を務めている「ためしてガッテン」のあのイメージそのものであった。そのおっさんは名前は「竹内照雄」であった。

 その日、練馬の師匠宅に弟子入りに来た竹内くんは名は体を表すなどはウソっぱちで、決して光をランランと輝かせるような照雄などではなく、日陰でジメ~ッとした感じがしていた。

 ま、そーいうのもあの時の状況を考えたら仕方ないというか……なにしろ、その時に志の輔は30歳に手が届こうという年配であり、確か俺の記憶に間違いがなければ、それなりの広告代理店でバリバリと働くエリート(?)サラリーマンであり、女房までいたと思うのだ。

 学生時代は、五街道雲助師匠、三宅裕司さん、立川談之助師匠、立川談幸師匠、コント赤信号の渡辺正行さんや小宮孝泰さんらお笑いのプロを送り出した明治大学の落語研究会で活躍していたらしいのだが、その後、芝居をかじったか何かしてのサラリーマン人生……しかし「このまま人生を終わったら悔いが残る」ということで一念発起!! 「明日をもわからぬ芸人ごときにだけはならないでおくれ~」と泣きすがる女房を足蹴にし、談志に入門してきたのだから(女房のくだりは100%俺の創作なので他言しないように!!)「どーもー! 名前の通りピッカピッカの照雄ちゃんどぇ~す!!」というわけにはいかなかったのだろうけどさ……。

 何をどーしてどーなったのかは立川一門の底辺の俺ごときが知るはずもなかったのだけど、師匠はあっさりと入門を許すどころか早々と「こいつは特別に俺が育てるから!」と俺たち弟子の前で宣言する事態に。ことは急激に進んでいくのであった。

 今思うとあれって、えこひいきだったのだろうか? 何かというと、師匠は「やれ志の輔」「ほれ志の輔」となっていたような記憶もあるし……てか、なぜか神経質そうなミスター・ノイローゼ談洲兄さんの姿を目にしなくなったのもその時期あたりだったような? それってある意味、繊細な談洲兄さんが自分の存在感を消失してしまい、身を引いたのだろうか……ウ~ン、あまりにも長い時間が経ってしまい、その辺の記憶がまったく定かではないのが残念でならない。

 一方、志の輔の入門により俺はというと……それまでの連帯責任になるからダンカンは絶対に師匠の視界に入るな!! と口うるさく兄さんたちに言われていた以上に自由な行動をとれるようになったのである。なにしろ連帯責任でクビになったら志の輔の場合、女房の人生まで狂わせてしまうのだから、何があってもシクじれない(俺を師匠に近づけられない)、よってその頃の俺は師匠宅にいるよりもすぐ隣にあるいなげやでソフトクリームなどをなめる時間が日増しに長くなっていったのだった。 (つづく)

(ダンカン/お笑いタレント・俳優・放送作家・脚本家)

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