出典元:夕刊フジ
【あの名場面の裏側】
「あと3人。ノーヒットノーラン、いけるぞ!」
8回を投げ終え、ベンチに戻ってきた巨人・堀内恒夫はチームメートが興奮ぎみに話し合っているのをけげんな面持ちで聞いていた。どこか他球場でノーヒットピッチングを達成しかけている投手の話で、自分のこととは思いもしなかった。
「四球を2個出すなど初回に27球も投げ、立ち上がりから荒れ気味だったのでノーヒットなんていう印象は全くなかった」(堀内)のだ。
9回のマウンドに向かう直前「そういえば俺も今日はヒットを打たれた記憶がないな」と投手の同僚・渡辺秀武に聞くと、「ホリ、なに言ってるんだ。お前が(ノーヒットノーランを)やってるんだぞ」といわれ、初めて気が付いたという。
1967年10月10日後楽園球場。巨人はすでにV3を決めこの広島との試合は日本シリーズに向けの調整の色合いが濃かった。そして先発の堀内はバットでケタ外れの猛打ショーを演じるのだ。
巨人は初回から得点を重ね3-0で迎えた2回裏、堀内は広島の先発・宮本洋二郎から左翼席中段に2号ソロをたたき込む。これがワンマンショーの序曲で、4回の2打席目は、西川克弘から左翼ポールギリギリに3号ソロだ。
そして投手としては史上初となる3打席連続ホーマーが6回に生まれる。サイドスローの西本明和(元巨人西本聖の実兄)の速球をたたき左翼席に4号2ラン。「ダイヤモンドを3回も回る気分は雲の上を走っているようで最高だった」という。
元々、投手として打撃センスは抜群だったが、1メートル78センチ、73キロのさして大きくない体で遠くに打球を飛ばせるのは柔らかい手首の使い方など天性の素質に恵まれていたからだろう(プロ通算は21本塁打)。4打席目はホームランとはいかなかったが。きっちりと中前安打を放っている。「前日の打撃練習で肩の力を抜き、リストを効かせる打ち方をしたらいい感じだった」ためこの日は打撃練習もせず、ぶっつけ本番だった。
4打数4安打3ホーマー、5打点。打者顔負けの猛打に目を奪われ、投球の方は見過ごされていた。
実際、前半は四球を出したり、あわやホームラン性の打球を浴びるシーンもあって本人はもちろんノーヒットに気づくナイン、首脳陣はほとんどいなかった。
しかし、尻上がりに調子を上げ5回からは三者凡退を続けて毎回得点の巨人に対し広島はゼロ行進。切れのいい速球に大きく落ちるカーブ。前年の1年目は16勝2敗で新人王、沢村賞、防御率1位などタイトルをほぼ総なめしたが、2年目のこのシーズンは腰を痛めて出遅れ夏場からようやく連勝しはじめたのだった。
堀内は右手の人さし指が極端に短く、ボールを握ると自然とカーブの握りとなる。これが「2階から落ちてくるようだ」と各打者が嘆く落差のあるカーブを生んでいた。
9回も投ゴロ、捕邪飛と2死となり最後は4番打者・藤井弘との対決。いきなり3ボールとなり、ベンチからは「無理せず歩かせろ!」11-0と大量リードしていることもあり四球を指示して記録達成の後押しだ。
が、堀内は「そんなケチなまねはできない」と勝負。3-2となった6球目、藤井のバットからはじかれた打球は鋭いライナーで左中間へ。「やられた!」と思って振り向くと左翼・相羽欣厚(よしひろ)が背走してキャッチ。3打席連続ホーマー&ノーヒットノーランの驚くべき記録はこうして達成された。ホームラン賞6000円×3、ノーヒットノーラン賞50000円を手にした堀内は試合後吉田、相羽ら合宿所の仲間をごっそり誘って、バーで「乾杯!」。賞金では足りず時計を形において帰ったという武勇伝のおまけもついた。 (スポーツジャーナリスト・柏英樹)